2012年5月24日 (木)

ドナーさんちのパーティー その15

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晩年のルイス・ケスバーグ

ドナー隊の最期の目撃者であるルイス・ケスバーグ

彼は最後の救助隊に発見された折、「タムゼン・ドナーを殺して食べた」として救助隊員から集団暴行を受けた。彼はこれを「濡れ衣を着せた」として、救助隊の何名かを名誉毀損で訴えている。彼は裁判に勝ちはしたものの、法廷が彼に贈った損害賠償は当時としてもはした金の1ドルのみ。裁判費用もケスバーグの負担となった。

1847年の『カリフォルニア・スター』紙は、ケスバーグが救助隊員から受けたリンチに近い扱いを記事にするとともに、ケスバーグの振る舞いをバケモノ扱いの筆致で書き立てていた。それによれば

春の雪解けによって、埋もれていた牛馬の肉が顔を出した。それを食べて生きられるはずなのに、ケスバーグはあろうことか人肉を好んで食べていた!」というものである。

ケスバーグは老いるにしたがって爪はじきにされ、しばしば脅迫を受けたりしたため、家に引きこもるようになった。ケスバーグは、取材陣のマクグラシャンにこのように言っている。

「しょちゅう思うんけどな、神様ってやつぁ、人間がどれだけ辛くて悲惨な境遇に耐えられるか試そうってんで、世に人もあろうにこの俺を名指ししたのさ!」

これを読めばケスバーグは「悲劇の主人公」という運びになるだろう。

しかし…

別の資料が物語るケスバーグはあまりにも能天気だ。それによれば…

後年、ケスバーグはサクラメントシティの酒場を飲み歩いては、ドナー隊の武勇伝を吹聴した。そしてタムゼン・ドナーをこのように褒めちぎったという。

俺の食ったオナゴの中じゃあ、一等に生きがよかったなぁ。数ポンドもの脂をあの柔らかい尻から煮出したもんさ。」

1850年代。
ケスバーグはサクラメントの街にステーキハウスを開店した。
その宣伝文句にいわく。

「最高に柔らかい肉しか売りません」

悲劇の主人公か?

あるいは人を食ったお調子者か?

160年を経た今では知るすべはない。

2012年5月20日 (日)

ドナーさんちのパーティー その14

1847年4月。

最後の生き残りであるルイス・ケスバーグを伴った救助隊が、サッタ-砦に到着した。
やがて「ドナー隊の悲劇」は当時の貧弱な通信網をもってしても全米に広まり、アメリカ国民はカニバリズムに驚愕することとなる。

その一方でカリフォルニアの地方紙は、ドナー隊一行を「英雄」として称賛した。そして「カリフォルニアとは、多大な犠牲を払ってでも行くべき楽園」として自画自賛にふけったのである。

さて…

ワサッチ山脈以西へ向かったドナー隊87人のうち、生存者は48人だった。リード家とブリーン家は一家全員が無事だったが、ジョージ・ドナー、ジェイコブ・ドナー、フランクリン・グレイブスは妻ともども死亡し、子供たちは孤児となった。ウィリアム・エディーは家族全員を失い、マーフィー一家は大半が死に絶えた。家畜もほぼ全滅し、カリフォルニアに生きてたどり着いたのは3頭のラバのみだった。ドナー隊の所持していた財産は、大半が打ち捨てられてしまった。

体験した災難のうち半分も書いてませんけど、あなたが災難というものが何か分かってないということを知ってもらうには、もう十分だと思います。でも神さまのおかげ様をもちまして、私のうちは人の肉を食べなくて済みました。いま私の周りにはなんでもあって、ないものといえばどうでもいいものです[note 13]。私たちは生き延びることができたんです。でも、この手紙を、誰かの何かをしたいという気持ちに水を差すものだなんて受け取らないで。ただとにかく、近道をしたり、しゃにむに急いだりしては絶対に駄目です。

—バージニア・リードより、いとこのメアリー・キーズへ。1847年5月17日[note 14]

もとより女性の少ないカリフォルニアゆえ、生存者のうちで未亡人は数ヶ月以内に再婚した。リード家はカリフォルニアのサンノゼに落ち着き、ドナー家の2人の遺児を引き取って新生活を始めた。やがて到来したゴールドラッシュの波に乗り、リードは成功を収める。

リードの娘・バージニアは、父親の検閲の下、イリノイ州在住のいとこ宛に「私たちがカリフォルニアに向かったときのトラブル」について手紙を書き送っている。1847年6月、ジャーナリストのエドウィン・ブライアントはその手紙を手に入れ、多少手直しした上で1847年12月16日付の『イリノイ・ジャーナル』に掲載している。トラッキー湖畔での越冬の折、小屋の中で祈り続けるパトリック・ブリーンを見て自ら結んだ願掛けを実行し、カトリックに改宗した。

マーフィーはメアリーズビルの街で暮らし、ブリーン一家はサンフアン・バウティスタの街に向かいそこで旅館を経営した。しかし、1862年の『ハーパーズ・マガジン』に掲載された、人食いを疑われる人物のもとに宿泊していると知ったときの激しい不愉快感を書き綴った物語は、名指しこそされてはいないが、ブリーンを題材としたものである。多くの生存者が似たような扱いを受けていた。

ジョージ・ドナーの娘、エリザとジョージア。中央はブルーナ夫人

ジョージとタムゼン夫婦の遺児は、サッター砦の近隣に住む老夫婦に引き取られた。ドナー家の末女エリザは、1911年にドナー隊の記録を出版している。しかし彼女は1847年当時にまだ3歳だったため、内容は既刊の論説や姉たちからの伝聞に基づくものである。事件当時1歳だったブリーン家の末女イザベラは、ドナー隊の最後の生き残りとして1935年に死去した。

私から親身で有益なアドバイスなど申し上げたいと思います。故郷を離れてはいけません――あなたは素晴らしい場所にいらっしゃるのです。多少気に入らないことがあるとしても、飢えて死ぬ恐れはないのですから。

—メアリー・グレイブスから レヴィ・フォスディック(メアリーの姉サラ・フォスディックの義理の父親)へ。1847年。[162]

グレイブス家の子供たちのその後はさまざまである。メアリー・グレイブスは早くに結婚したが、最初の夫は事件に巻き込まれて殺されてしまった。彼女は監獄に収容された夫殺し犯のために食事を作り、彼が絞首刑に処せられるまで飢えることがないよう気を配った。メアリーの孫の1人は、彼女が深刻な表情で語っていたと回想している。「泣き叫ぶことができたらと思う。でもできない。あの悲劇を忘れさってしまえば、泣き叫ぶとはどうやるものか思い出せるかもしれないけれど」。メアリーの弟・ウィリアムは一所に居つこうとしなかった。その妹ナンシー・グレイブス(1846年冬から1847年の当時9歳)は、事件の正確な記録を得ようとしてコンタクトを試みた歴史家たちに対してさえ、取材を拒否した。伝聞によれば、弟と母の肉がカニバリズムの対象になったときに自分が果たした役割に正面から向き合うことができなかったと言われる。

エディーは再婚し、カリフォルニアでの新生活を始めた。息子を食べたケスバーグとの因縁を果たそうとするものの、ジェイムズ・リードやエドウィン・ブライアントに思いとどまらされている。翌年、エディーはJ・クイン・ソーントンに当時のことを語った。ソーントンは、他にリードの体験談も用い、ドナー隊のエピソードに関する最初のまとまった文書を執筆している。エディーは1859年に死去した。

さて、最後の生き残りであるルイス・ケスバーグだが…

2012年5月12日 (土)

ドナーさんちのパーティー その13

山脈を越えた救助隊一行は、、ドナー一族が春を待ちわびるオルダー川キャンプに至る。
しかし動くものは無く、死後数日を経た老人…痩せこけ腕が腐り果てた遺体が転がるのみだ。そう、ジョージ・ドナーの亡骸が…

彼を看病していたはずの妻・タムゼンはどこに行ったのか?
救助隊はオルダー川キャンプから、トラッキー湖畔に至る。
その道中で出会ったのがドイツ系移民、ルイス・ケスバーグだった。

きついドイツ語訛りで、ケスバーグは答える。

「三回目の救助隊が行ってから1週間もしねぇうちにマーフィーのおかみさんがおっ死んでな、湖のほとりで生き残ったのは俺ひとりだぁ。したが2,3日ほど前ぇにドナーんとこのおかみさん、タムゼンさんがうちに来てよ。何でもジョージの旦那がこれまた死んじまったっつうことだべさ。後家になったタムゼンさんはもうキチガイ沙汰で、山越える山越える、カリフォルニアにあたい一人で行くと言い張ってな。だもんで俺はタムゼンさんを引き留めたよ。そして毛布を渡して、一晩泊まるようにいなしたんだ。でも、タムゼンさんは雪の中さまろび出て、結局凍え死んじまっただ。」

小屋の中にタムゼンの遺骸は無かった。あるのは人肉が満たされた壺、血で満たされた鍋。

そして…
フライパンの中では、新鮮な人間の肝臓がジリジリとあぶり焼きにされていた。

救助隊員はタムゼンを殺して食べたとして、ケスバーグをリンチにかけた。しかしケスバーグは白状しない。その後の捜査で、小屋の中からはジョージ・ドナーのピストル、宝石、そして273ドル相当の金。それはいずれもドナー一家の所持物だった。

ケスバーグが白状することには、タムゼンから娘のためにとして金品を託されたということだが…

ドナー隊に着想を得たホラー映画。
アイス・オブ・ザ・デッド

2012年5月 9日 (水)

ドナーさんちのパーティー その12

第二次救助隊に伴われた生存者の一団が峠道を超えた瞬間、
猛烈な吹雪が襲来する。
この吹雪によって、二人の少年と夫人が凍死した。
雪穴の中で何とか火を焚いて耐える一団は、
その遺体を切り刻み食料に変えることで生きながらえた。

3月14日。
カリフォルニアに行きついていた生存者の一人であるエディは、
トラッキー湖畔に残してきた子供の生存を信じて
再び山を越える。
しかし彼に突き付けられたのは、愛息の死という現実だった。

トラッキー湖畔の生存者の一人であるドイツ系移民、
ルイス・ケスバーグから

「あなたの息子さんを『食べました』」と告白されたエディは

「もし今度カリフォルニアで会ったら、絶対殺してやる!」と
宣告している。

その折、オルダー川河畔のドナー一族が住まうキャンプでは、
タムゼン・ドナーが夫でドナー隊隊長でもあるジョージ・ドナーの
看病をしていた。

腕から肩にまで達した壊疽は60代の老人・ジョージの命をむしばむ。
タムゼンは小屋の中を何とか動けるような体力の中、
気丈に夫の世話を続け、救助隊員にも残留の決意を示していた。

結局、まだ生き残る夫婦の娘たちのみが
救助隊に連れられカリフォルニアに向かった。

シエラネバダ山脈以東に残ったのは、
病身のジョージ・ドナー。
看病をする妻、タムゼン・ドナー。
マーフィー夫人。
そして、ドイツ系移民のルイス・ケスバーグのみである。

彼ら以外に、当事者も目撃者も居ない。

4月10日。
最後の救助隊がシエラネバダの山脈を越え、
トラッキー湖畔に至った。

2012年5月 6日 (日)

ドナーさんちのパーティー その11

死地を抜け出し夫と再会し、うれし涙に暮れるマーガレット・リード。何とか山を下った生存者と救助隊員たちは、救助隊のベースキャンプ・ベアバレーに到着してようやく安寧を得る。

しかし…
ジェイコブ・ドナーの義理の息子であるウィリアム・フックは飢えに任せて貯蔵食料を食い荒らした挙句、「食べ過ぎ」で絶命している。

他のメンバーはなおも山を下り、カリフォルニアのサッタ-砦に入場。ようやく本当に安寧を得る。ジェイムズ・リードの娘であるバージニアは、のちに「本当に、天国に足を踏み入れたのではないかと思いました」と書き残した。

その折、彼女はサッタ-砦近隣に住む若者から結婚を申し込まれている。しかし、当時12歳の彼女は、さすがにこれは断っている。

カリフォルニアに至った生存者たちが心身ともに落ち着きを取り戻しつつあるころ。山脈東側・トラッキー湖畔では相変わらずの生き地獄が続いていた。
3月1日、経験豊かな登山家にジェイムズ・リードを加えた第2の救助隊が再び山脈を越え、トラッキー湖畔に至る。リードは先に置き去りにされた年少の子供2人と再会できたが、生存者たちの状況は「言葉はおろか、想像力の限界を超えた状況」だったという。

雪のなか風呂にも入れず、精神を病むもの。脚の傷が悪化し、小屋の中をはいずり回るもの。そして雪上に転がる白骨死体。零下数十度の気候を考えれば、腐って白骨化したとは考えられない。明らかに、人為的に肉を削ぎ落されたものだ

なぜ、遺体から肉を削り落とす必要があったのか…

事態はオルダー側のドナー一族も同じようなものだった。救助隊が向かったところ、御者のジャン・バティスタ・トルドーが切断された人の脚を悪びれもせず運んでいた。昨年の暮れに餓死したジェイコブ・ドナーの遺体は四肢を切断され、雪穴の中に保存食として蓄えられている。ジェイコブの妻・エリザベスは夫の遺体を食うことを拒否してはいたものの、子供たちにはその肉を食わせて養っていた。ドナー隊隊長であるジョージ・ドナーは、手のひらの小さな傷から発した壊疽がもはや肩にまで達し、重篤な状態に陥っていた。

第2次救助隊は生き残りのうち、3名の大人と14名の子供、計17名を連れ出すことにした。その中に、ジョージ・ドナーや妻のタムゼン、エリザベス・ドナー、ルイス・ケスバーグらは含まれていない。タムゼンは第三次救助隊がじきに来るとの言葉を信じ、夫の看病のために居残ることにした。彼女の娘たちも、母に従って残留する決意を固める。

一方、救助隊員に従って出発した17名は(やはり)災難に見舞われることになる…

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2012年5月 1日 (火)

春の恵み・白樺樹液。

北日本の風物詩・白樺の木

白樺は美しい。
北日本のさわやかな空気。
柔らかな陽光の中で輝く純白の幹。

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まさに高原の女王!

しかし実際のところ、北日本に住む住人にとっては厄介者の樹だ

白樺の木は質が悪い
切り倒して放置すればすぐに腐り、木材としての使いでが無い。
割り箸かアイスの匙がいいくらい。
薪にすれば火付きは良いものの、すぐに燃え尽きる。
そして、白樺の純林はたいていが痩せ地。畑にもならない。

そんなわけで、農家にも樵にも持て余される哀れな木である。
そのうえ最近では、「シラカバ花粉症」というものが
存在するから恐ろしい。

花粉症の「転地療法」を求め杉の生えていない北海道に引っ越したら、シラカバで花粉症が悪化したという笑えない話もあるくらい。

しかしそんなシラカバにも意外な恵みがある。
白い純白の皮は油分を含んでよく燃え上がり、
薪ストーブのいい焚きつけになる。

皮をねじって巻き上げれば、雨中でも燃える松明ができる。
かつてアイヌ民族は、このシラカバ松明「シュネ」で秋の川面を照らし、
寄り集まる鮭を捕えた。

No_18シラカバの火付きの良さは、
のちに北海道に入植した移民たちにも受け入れられた。

シラカバ乾燥薪36cm大中割(予約分)

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価格:1,050円(税込、送料別)

夜間の松明として利用するとともに、冬季の貴重な薪として大量に保管した。
帯広市の銘菓「三方六」は、バームクーヘンとチョコでもって再現した
シラカバの薪である。

さらにシラカバの意外な恵み…

以前「グレンスフォシュ・アメリカ式伐採斧」の記事で紹介した
以下の動画を見ていただこう。

http://www.youtube.com/watch?v=ISepmNwOAsU&feature=related

動画後半・15分あたりの映像。

雪が消えたばかりの、春先の森林。
シラカバの幹にナイフを突き刺せば、樹液がツゥゥと滴り落ちる。

これこそがシラカバ樹液だ。
春先のシラカバは、萌え出る準備として幹に大量の水分を蓄える。
幹に多少の傷をつけただけでほとばしり出るのだ。

アイヌはこのシラカバ樹液を「タッニ・ワッカ」(シラカバの水)と呼び、
水場がない場所で野営する際の飲み水としたり、
あるいは姫ザゼンソウで風味とつけて飲料とした。

現代の科学分析によればこの樹液には各種ミネラルが含まれ
飲んでも肌に塗っても人体に良い影響を及ぼすとのことだ。

それら薬効を生かし、シラカバ林を有する北日本各地の地場産業としてシラカバ飲料、シラカバ化粧品が生産されている。

見てくれだけの役立たずで、花粉症の元凶でもあったシラカバ。
意外な底力を秘めているとは、まさに天の配分ではないか。

ドナーさんちのパーティー その10

1847年2月18日。
救助隊員7人はシエラネバダ山脈フリーモント峠を越え、
トラッキー湖畔に至る。
ドナー隊のメンバーであるグレイブス夫人は、
救助隊員らを見てこう言ったという。

「あなた方はカリフォルニアから来たのですか?
それとも天国から来たのですか?」

ドナー隊のキャンプサイトは悲惨なものだった。
まさにあの世だった。

餓死者・凍死者の遺体は埋葬もされず放置され、
雪は汚物でドス黒く染まっている。

丸太小屋の屋根は雪解け水を受けて腐り、
腐乱死体と共に猛烈な臭気を放っている。
生き残りの者も、幾人かは情緒不安定に陥っている。

救助隊は少しばかりの食料を生存者に施したのち、
自力での山越えが可能そうな29人をカリフォルニアに連れ帰り、29人はトラッキー湖畔やオルダー河畔に残ることになった。

救助隊について行くことになったリード夫人と子供たちに、つらい現実が突き付けられる。4人の子供のうち、年少の2人は幼く、とても雪道を越えられそうにない。彼らを背負って山越えできるほど体力のある者もいない。リード夫人は年長の2名のみカリフォルニアに同行し、年少の2人はトラッキー湖畔に戻すより他になかった。

トラッキー湖畔に戻ることになったリード夫人・マーガレットの娘であるパティは言う。

あのね、お母さん。
これでもうお別れになるかもしれないけど、
お母さんには精一杯頑張ってもらいたいの
。」

パティーとトーマスの2人はトラッキー湖畔に戻った。
戻ってきた二人を見た残留組は彼らを入れまいとしたが、
彼らのために食料が残されていたと知るや、
渋々ながら招き入れた。

一方、救助隊に付き添われカリフォルニアに向かう一団も悲惨だった。
道中に隠しておいた食料は野生動物に食い荒らされ、彼らは数日間食料なしで雪道を彷徨うことになる。そこへ吹雪が襲来し、2名の凍死者が出た。飢えに苛まれ革ひもをしゃぶりつつ耐える一行。救助隊は、彼らが生きて山を降りられないのではないかと懸念を深める。

そんな折、一行は第2の救助隊と出会う。
その中の一人が、昨年秋に殺人事件で隊を追放されていたジェイムズ・リードだった。

夫の声を聴きつけたマーガレットは、こらえきれず雪の中に倒れ伏した…

2012年4月25日 (水)

ドナーさんちのパーティー その9

インディアンどもを殺して、食ってしまおう!

この白人至上主義者丸出しの企みを知って驚愕した心優しい白人、ウィリアム・エディーは、2人に逃げるよう勧める。「生きのいい食料」を失った白人一行は以降もカリフォリニアを目指し山中をさまよううちに、逃げ出したはずのインディアンを発見。あわれ2人は銃殺され、文字通り白人どもの「食い物」に化けてしまった。

1847年1月、カリフォリニアのミウォーク族の村に、やつれ果てた白人の一団が転げ込んでくる。村人は恐れて逃げ出したが、事情を知ってドングリなどを施した。さらにインディアンたちは同族食いの白人らを親切に助け、サクラメントの白人入植団に引き渡した。

山脈東部のトラッキー湖畔を出立してから、33日目の事だった。

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一方、こちらは救助隊を待ちわびるトラッキー湖畔。人々の生活はそれは悲惨なものだった。3棟の狭苦しい丸太小屋に閉じ込められた一団は連日の吹雪に苛まれ、薪を手に入れることも難しい。食べ物と言えば、獣皮を煮出して作ったドス黒い膠の固まり。あるいは床の敷物を炙って食らい、小屋に紛れ込んできたネズミすら食料として捕える。開拓民たちは飢えで体力も弱まり、一日中を寝床の中で過ごすのみだ。歩いて一日がかりの距離にあるドナー一族の越冬地からは、たまに使いの者が来る。彼らの話によれば、隊長のジョージ・ドナーは手の傷が化膿して腕全体が腐り、兄弟のジェイコブその他数人はすでに餓死しているとのことだ。

追放されたジェイムズ・リードの妻・マーガレットは食料を節約し、クリスマスの日に煮込み料理を作って子供たちを喜ばせた。しかし年明けて一月になれば彼らも飢え、屋根の覆い皮を食料としてかじるようになる。食い物を巡っての醜い争いは日常茶飯事だった。

さて、こちらはカリフォルニア。
時は折しもアメリカ対メキシコの戦・米墨戦争の真っ最中。交通は混乱をきたし、通信は遮断されていた。そんな中でもジェイムズ・リードは周囲の人々を説得し、救助を懇願した。地元の2紙は山越えの旅で起こった人肉食いを書き立て、人々の同情を買う。情にほだされた人々の協力で2010年の31,000ドルにも相当する義捐金が集まり、救助隊が結成される。

1847年、2月4日。10人余りの男たちで結成された救助隊は、カリフォルニアのサクラメントを経った。風雨を突きながら進む一行は3人の脱落者を出しながらも、着実に前進していた。

ドナー隊をテーマにしたホラー映画
「ラビナス」

2012年4月23日 (月)

ドナーさんちのパーティー その8

一方、こちらはカリフォルニアのサッタ-砦。

殺人事件が原因で隊を追放されたジェイムズ・リードは、追放されたことが原因で一足早くカリフォルニアに到着できた。なんという皮肉だろうか。身の安全が保障されたリードは、山向こうにいまだ取り残された家族や仲間たちの事が案じられてならない。

シエラネバダの山頂はもはや雪に閉ざされている。
しかし仲間の車列はいまだこちら側に到着しない。
何があった?

リードは地元の軍人を説得し、救助隊を結成
30頭の馬を連ねた13人の男を指揮してシエラネバダの山中に分け入った。
彼らは峠道まで19キロの地点に達したものの
数メートルの豪雪に阻まれ、むなしく帰還するのみだった。

山脈東側・標高2000メートルのトラッキー湖畔。
ドナー隊はこの地での越冬を決め、かつてこの地を通過した開拓団が残した粗末な丸太小屋を手直しして住むことにした。天井も床材も、窓もドアもない急ごしらえの小屋は3棟。ここに老若男女60名の一団が押し込められるのである。一方でトラッキー川支流のオルダー川のほとりでは、ドナー一族20名余りが急ごしらえのテントを組み立て、越冬の支度を整えていた。

砂漠越えの旅で尽きかけていた食料は一層乏しくなり、牛馬は寒さや飼い葉の不足で次々と斃れる。斃死した牛馬はそのまま積み重ねられ、開拓民の貴重な食料となる。飢え凍えた痩せ牛の死骸は、健康な牛の数倍の値段で取引されていた。

一方、開拓民の中で健康な男女はある決断をした。徒歩で歩いて山脈を越え、カリフォルニアから助けを呼んで来ようというのである。彼らは馬の鞍と皮を使ってかんじきをこしらえ、それぞれ足に装着する。彼ら開拓民とインディアンのガイドを含めた13人の一行は西へ向け希望と責任を込めて歩み出した。

しかし乏しい装備、乏しい食料、そして慣れない雪道。純白の雪原に照りつける陽光が一同の目を苛み、数日後には彼ら全員が視覚障害をわずらう。

出発してから数日後、一行の一人、チャールズ・スタントンが落伍する。後を追うという彼だったが、彼は結局そのまま疲労死し、翌年にその場で朽ちた白骨となって発見される。

乏しい食料はじきに尽きた。
飢餓状態の中で数日歩みうちに、驚くべき話が飛び出す。誰か一人に死んでもらい、食料にしてしまおうというのである。その「だれか」を決めるに当たり、決闘で決めようか、あるいはくじ引きをしようか、話は具体的な方向に流れ始めた。しかしそれら提案が実行に移される前に、猛烈な吹雪が襲来する。

風雪が吹き募る中、2人が凍死。あるいは寒さで錯乱状態に陥って自ら衣服をはぎ取り、これもまた凍え死んでいく。3人の死者を前にした一同はついに意を決し、彼らの遺体をバラバラに切り刻むとそれぞれ口にし始めた

折しもクリスマスの日のことだった

一行はそのまま数日間休息し、人肉で体力を回復する。そして残りの遺体を切り刻んで火で炙り、保存食に加工すると再度出発した。一行の中には人肉食を拒否するものも居たものの、結局は飢えに屈して口にしている。

大切な「保存食」もじきに底をつき、再度飢えが襲ってきた。やがて白人たちの間に不穏な動きが起こった。

2人のインディアンのガイドを殺し、食料にしてしまおうというのである…

ドナー隊に着想を得たホラー映画。
アイス・オブ・ザ・デッド

2012年4月20日 (金)

ドナーさんちのパーティー その7

ふとした諍いから、殺人犯になりはてたジェイムズ・リード。
その晩、隊の者たちはリードへの処置を話し合う。当時メキシコ領だったこの地で合衆国の法律は適応できず、移民団の正義のもとで捌く必要がある。状況から見れば事件の原因を作ったのは殺されたスナイダー。スナイダーはリードばかりか、リード夫人・マーガレットにまで暴力を振るっていた。

しかし…
スナイダーはもともと性格が明るく、若くてルックスもイケメン、隊の人気者。一方で高慢ちきなリードは隊の嫌われ者。ドイツ系移民のルイス・ケスバーグはリードを絞首刑に処すよう主張したが、結局リード一人を隊から追放することで事件の沈静化が図られた。

翌朝。
リードは妻や四人の子供と引き離され、ただ一人で西へと去っていく。それでも一部の心優しい者に食料と銃を手渡されたリードはドナー家の御者と落ちあい、馬を乗りあうことで旅程のスピード化に成功する。

一方、リードを追放したのちのドナー隊は一層悲惨だった。
インディアンによる襲撃は引きも切らず、家畜の損害は増えるばかり。いくつかの家族は動力家畜を失い、荷車を放棄せざるを得なくなる。食料の不足で人は飢え、飼い葉の不足で家畜は痩せる。弱った家畜をいたわるため、一行は馬車の重量を減らすために徒歩で進んでいた。リードを処刑するよう主張していた例のケスバーグは、自身の荷車に乗っていた老人・ハードクップを

歩け!さもなくばぶっ殺す!」

などと言って、非情にも馬車から追い出してしまったのである。
ハードクップはそのまま消息を絶った。

一行のある者はハードクップを探し出してくれるよう他の者に懇願するが、「そんな老いぼれに分ける食いもんなんか無いわ!」などと、罵られる一方だったという。
ああ、白人社会…

飢えと襲撃で、100頭近い家畜を失ったドナー隊。夫を追放されたリード夫人も馬車を失い、4人の幼子とともに呻きつつ歩むのみだったが、幸いにもこの時点までは結核による病死者以外の死者は出ていない。

しかし…
後の出来事を考えれば、ここで死んでおいて幸福だったのかもしれない。

10月中旬。
一行は青草が美しく茂るトラッキー川に落ち当たる。
この川を遡って分水嶺を超えれば、一日で念願のカリフォルニアだ。

そこで一行は、1ヶ月ほど前に食料を求めて先行したチャールズ・スタントンと出会う。彼はいくばくかの食料や家畜と共に、インディアンのガイド・ルイスとサルバドールを引き連れていた。折も折、カリフォルニア側では隊を追放されたジェイムズ・リードが、飢えにやつれつつもサッタ-砦に到達していた。

トラッキー川を遡るにつれ、秋は深まりゆく。
十月下旬、目前に立ちふさがる最後の障壁・シエラネバダ山脈の峰は白く染まりつつあった。11月上旬までに山を越えればよいとの目論見に暗雲が萌し始めた。ドナー隊は何とか隊列を急がせるが、数マイル進んだところでドナー家の荷車の車軸が折れてしまう。ジョージ・ドナーとジェイコブ・ドナーの兄弟は、森に分け入って木を伐りだし、交換用の車軸を作り始めた。この作業の中、ジョージは手にうっかり傷をつけてしまう。

この傷は、のちに文字通りの「命取り」になるのである。

それでも一行は、何とか峠道を見上げる最後の平地・標高2000メートルのトラッキー湖畔に到達する。すでに積雪3メートルもの深さに達し、どこが路かすらもうかがえない。

雪はそのまま降りしきるのみだった。

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